創業40年のあゆみ
16/62

 東明興業㈱の会長さん・社長さん、そして社員の皆さん、創業40周年、誠におめでとうございます。心より、お祝いを申し上げます。 東明興業㈱さんとの関わりは、現在も稼働している。産業廃棄物中間処理施設の計画からです。昭和61年(西暦1986年)から本格的に計画がスタートし、昭和63年5月に最終フロー及び施設レイアウトが決定し、建築図面・機械基礎設計・建築確認などの手続きを経て、平成元年(西暦1989年)に機械設置開始、そして同年に完成となりました。 昭和61年の計画から、最終レイアウトが決まるまで幾度となく、現在の福田会長さんと打合せを、当時の本社で行ったものです。打合せ開始が午前10時の場合等は、福山を21時過ぎの夜行列車に乗り、有楽町から地下鉄で平和台駅に降り、本社に行ったものです。商社として三井物産機械販売が入っており、役所への申請手続き等は、藤木さんが担当されていて、一緒に業務を進めていました。打合せが長くなると、会長さんのお気に入りの蕎麦屋の出前で昼食を御馳走になったものです。又、丁度その頃は、国鉄民営化(1987年4月)によりJRが誕生したのですが「東京グリーン」切符だと、行くとき寝台列車の場合、帰りに新幹線のグリーン車が+1500円なので、2~3度利用させていただいたことが有りますが、この後グリーン車に乗ったことが無く、寝台列車も無くなった今では、とても懐かしく思い出されます。 平成元年に入って、工事開始となったのですが、破砕機等は、建物が出来る前の機械基礎が出来た段階で設置する工事となり、建築とのすり合わせが大事な工事でしたが、当時建築工事の現場監督は、大竹材木店の堀井さん(故人)であり、施主代理人として、会長さんの弟さんである福田さん、そして、私が機械設備の現場代理人として、3人で連携良く工事を進めることが出来たと思っています。又、アフター5もよく一緒させていただき、かなり長い工期でしたが、けっこう楽しく仕事をやらせていただきました。当時は、日本も好景気で、まさにバブルでした。今でもよく覚えているのが、フィリピン等外国からの出稼ぎ労働者の鉄筋工が、日当16,000円と聞いて、私なんかより高給取りであったのは本当にビックリしたものです。でも当時は本当に好景気で、私も若かったし、日本の未来にも希望が持てて、世の中が明るかったように思えてなりません。この工事で残念なことは、今でも当時を知っている同僚にからかわれるのが、この工事の為に買ったプラズマ切断機を、暫くたっていざ使用する際になって、無くなっていることが判り、唖然としたこと、しかも何時無くなったのか全然解らなかったことです。そんな事が有りながら、工事も完了となり試運転が始まりました。この時、伊勢さん(現在社長)がオペレーターとして参加されました。試運転と言いながら、直ぐに本格的に廃棄物をライン投入したものですから最初はいろんなトラブルが発生したものです。そのトラブルに対しても、伊勢さん、福田さんは、一生懸命対応していただき、この人達がいれば、この設備の操業は十分任せられる確信したものでした。この設備の計画受入量が収集ダンプ200台であり、当時の処理単価を聞いて、私なりに計算するとかなりの利益になるので、驚きと会長さんの先を読む力に、改めて感心したものでした。従って案の定、東明興業㈱さんに続いて、大空土木さん、石坂産業さん、タケエイさん等の競合他社が、建設系混合廃棄物の中間処理施設建設へと、乗り出してきたものです。 東明興業さんの中間処理施設が操業するまで、私共が関わらせていただいて3年以上かかったのですが、会長さんはもっと前から考えられているので、更に年数がかかっていると思います。この様な、日本初と言ってもよい、大規模混合廃棄物の中間処理施設が、役所の許認可を得て成し遂げられたことは、当時、会長さんが、関東建設廃材処理業協同組合(関東建廃協)の理事長であり、地域の交通安全功労者として「緑十字章」を授与されていたこと等から、公私に渡り社会貢献されていたことも一助になったと思っています。私にとっても、この様なやりがいのある仕事に関わらせていただき、当時でも大きな達成感をいただきました。そして、東明興業さんが40周年を迎えられたことは、更なる喜びを感じております。 東明興業㈱さん、そして貴社に関わる全ての人が、益々発展される事を祈念いたしまして、寄稿の締めとさせていただきます。40周年 祝辞12林 孝治株式会社 御池鐵工所常務取締役創業40周年に寄せて

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です