創業40年のあゆみ
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40年の歩み(1)18 創業者福田義明は昭和22年7月4日、群馬県藤岡市上日野で父 安太郎、母 ひゃくの8人兄弟の7番目として生まれました。昭和35年8月には川で溺れている人を助け、人命救助で感謝状※1を贈られました。 昭和38年、集団就職で都内の印刷会社に入社。その後、これからは車社会になると考え、自動車整備工場に転職。整備士の国家資格を取得しました。当時その会社には野球チームがあり、野球仲間より自動車修理工場の設立資金の調達の為産廃を運搬する仕事に誘われ、昭和47年1月、産業廃棄物の運搬会社を設立、共同経営します。これからの高度成長期時代は建設ラッシュであり、産業廃棄物処理が時代に即した仕事になると確信し、その後、昭和51年2月4日 板橋区に東明興業株式会社を設立します。 東明興業の名称の由来は、東京で義明が業を興す、まさしく読んで字のごとくであります。同時に社章は、志向及品質面での実質内容日本一を目指す富士山としました。 昭和53年に埼玉県より積替保管の許可を取得。それまで他社に依存していた所謂「捨場」を持つことが出来ました。その頃の積替保管は外周を側溝板で囲み、未舗装の土の上で人力によりダンボール、スクラップ、非鉄金属等の有価物を選別し、木くずは大きいものだけ拾ってチップ工場に運びます。残りは川の水をかけながら大きなブルドーザーで揉んで粉々にして大型車に積み込み、安定型処分場に処分していました。当然、人と重機が同じ場所で働いており、雨が降ればぬかるみの中で作業することもありました。社会保険も労災もなく、ヘルメットさえかぶっていない劣悪な作業環境でした。この現状をみて創業者はもっと安全により良い作業環境で仕事をさせたいと考え、機械化することを決意します。 当時、機械化といっても行政の一般廃棄物の清掃工場くらいしかなく、コンクリートガラや木くずの単品破砕が露天であったぐらいです。 昭和59年 建設業界冬の時代に京浜建設廃材処理業協同組合(現 建設廃棄物協同組合)の理事長になります。当時は不法投棄、不適正処理が横行しており、ダンピングにも歯止めが掛らない状況でした。 このような状況の中で創業者は適正処理と、自主管理を基本とした処理経路図、最終処分場の残余量を「建廃協だより」で公開し自主パトロールを強化すると同時に、関係行政と協議し現在のマニフェスト伝票のルーツとも言える「廃棄物処理票」と「管理台帳」による自主管理システムを構築しました。又、当時問題となっていた最終処分場の搬入量と受入印の不正をなくすため、積替保管に搬入された廃棄物が確創成期〈1976~1988年〉積替保管から中間処理へ生い立ち※1交通栄誉賞

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